伊藤計劃に委ねているという話。
あれは10年ほど前、厳密には10年と4ヶ月前のことらしい。
好きなアーティストが主題歌を歌っている、その情報だけで私は「ハーモニー」という映画をひとりで観た。中学生だった。
あの日、私の死生観は壊された。
元々、年齢相応に色々と考える人間で、その時期は、終わりの始まりのタイミングで、人生的には、大きな転換点だったのだと思う。
要するに息苦しい、生き苦しい時期。その自覚が未だ持てなかった時期。
何があったかと言うと、高校受験真っ只中で、その数年前から、私の塾代のために働きに出ていた母を信じきれなかった愚かな父が、根拠のない不信感の果てに「私が合格したら私を連れて離婚しようかな」などとありもしないことを娘である私に漏らしたのである。
大人になってしまえばそんな些末なこと、家族の円満のために立ち振舞いを考え続けていた子どもにとっては、とても大きなことで、壊れかけていたのである。
実際高校入学後にうつになっている。私の人生っていつも人の一挙一動に左右されて壊されている気がする。この他責思考も3割くらいは正しいと思わせてほしい。
そんな頭いっぱい限界目前な思春期の女の子にとって、死を目前にした人間が紡いだユートピアは、それはもう原子爆弾のように響いてしまった。
今もあの世界に恋焦がれるぐらいには。
あらすじ、結末に関しては個々人で咀嚼してほしいので割愛する。
なのでここからは結末に関する話を遠慮なく書くことになる。
トァンとミァハの結末の軸は"意識"だ。
意識の在り処、その結末。
結論から言うと、私は無意識、この作品を読んだ神林長平先生の言葉で言うところの集合的無意識にひどく惹かれている。
人生において最善の立ち振舞いをできたという成功体験がひどく少ない。
今も、そして今日も、これは正しくないと自覚しながら身動きが取れない愚か者の人生を生きている。
ただ私は、最善の立ち振舞いがしたいのだ。それができたとき、この人生は苦しみから解放されると信じているから。
そして、日夜、思考の暇に生まれ続ける真っ暗な妄想、これに苦しめられ続ける人生を終わりにしたい。
私が上手に生きるためには、意識などいらないのだと感じている。
自分で動かす人生ではなく、運ばれる人生がいい。
だから、あの世界は美しく見えるのだ。
その人の適正で仕事が決まり、人生が決まり、病がない、理想的な世界。
主人公であるトァンはその世界の歪さに首を絞められていたが、私はそこまで賢くないので、歪さに気付きさえしないのだろう。
そしてあの淡い桃色に包まれた世界で私は、何を成しているのだろうか。
何も成していないのかもしれない。
あるいは何か才能を見出されて、生き生きとしているのかもしれない。果たして生き生きと、という言葉が当てはまるのかどうかは不明だが。
そしてハレルヤに祝福されたあの結末の後であれば、私は真に苦しみから解放される。
この苦しみが、人生の歪さが、私を作り上げていて、私の作品を作り上げているのかもしれないが、苦しみ続けることを美談にしてはいけない。人生とはもっと幸せであるべきだ。
そんな世界では、自死はとても悲しいもので、許されざることと言う認識すらない。
現代、自死を選んだ人はどちらかというと批難される傾向にある。
私はそれが許せない。
理由は、あと2ヶ月ぐらいしたらまた触れようと思う。
死はただ悲しいのだ。
本当はそれが選択の果の門出なら、見送ってあげてほしいとも思うが、そこは個々人の背景が絡んでくるので一概には言えないだろう。
そうであってほしい。
私が死に損なった時も、仮に成功してたとしても、批難される謂れはないのだ。
…道中より結論のほうが薄いのはどうかと思うが、私は伊藤計劃に変えられてしまったのだ。人生の見方を、眼鏡の掛け方を。
彼の別作品に虐殺器官というものがある。こちらは言葉を主題にした物語だ。
これらの作品を読んでいて、言葉選びも立ち振舞いも上手くいかない私を誰か笑ってほしい。人生って難しい。
かなわない夢なのはわかっている。
それでもいつか、無意識の世界に行けると信じて。
そしたら、死を怖いと感じなくて済むと信じて。
私の幸せのための人生を歩みたいと思っている。
その日まで繰り返し、擦り切れるまで繰り返し読みながら、彼の言葉をなぞる事を支えにしながら、かろうじて生きていけたらと思う。
自我は、いらない。
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